ウェールズ語

~生き残ったヨーロッパ最古の言語~

courtesy of Photolibrary Wales
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ウェールズを“英国のなかの異国”にしている最たるもの、

それが、固有の言語であるウェールズ語でしょう。

英語の方言のようなものだなんて思ったら、大間違い!

単語も語順も文法も、まったく異なるのです。

英語と日本語くらい違うといってもいいくらいなんですよ。

 

ウェールズ語は、ヨーロッパ最古の言語のひとつ。

インド・ヨーロッパ語族ケルト語派に属しています。

ケルト語はかつてヨーロッパで広く話されていましたが、

ローマ人やゲルマン人の侵攻にともない、

アイルランド、英国、フランスといった

西域の辺境に残る少数言語となりました。

 

現存するケルト語には大別して2種類あり、

ひとつがPケルト語、もうひとつがQケルト語。

ウェールズ語は、フランス・ブルターニュ地方のブリトン語や、

イングランドの西端で話されていたコーンウォール語とともに

Pケルト語に含まれます。

アイルランド・ゲール語やスコットランド・ゲール語、

マン島のマン島語は、Qケルト語です。

 

英語という世界最強言語の本家本元であるイングランドの隣に位置し、

政治的・心理的にも抑圧されてきたウェールズの歴史から考えると

ウェールズ語が今日まで生き残れたのは、非常に幸運なことでした。

実際、“ウェールズの七不思議”に次ぐ“八番目の不思議”として

ウェールズ語の存続をあげる人もいるほどです。

今回はそんな、ウェールズ語のサバイバルについてお話ししたいと思います。

1536 Act of Union
1536 Act of Union

 

さて、艱難辛苦のはじまりは、1536年。

この年にイングランド王ヘンリー8世が発布した併合令によって

ウェールズはイングランドの支配下に置かれました。

そしてこの法令により、ウェールズでは英語が公用語となって

ウェールズ語の使用が禁じられてしまったのです。

以来、イングランド人とのコミュニケーションの必要性からも

ウェールズの統治者階級では英語が使用言語となりました。

 

はじめはアッパークラスだけの風潮だったとはいえ、

この状況が続けばウェールズ語の息の根は止められていたことでしょう。

ところが皮肉なことにそれを救ったのは、

併合令を発したヘンリー8世の娘であるエリザベス1世が命じた

ウェールズ語の祈祷書と聖書の編纂でした。

courtesy of Museum Wales
courtesy of Museum Wales

エリザベスが治世についた当時、父王の断行した

宗教改革の余波で国中が動乱のさなかにありました。

国内でのカトリックとプロテスタントの抗争はもちろん、

若き女王はヨーロッパ大陸のカトリック諸国から

イングランドをプロテスタント国として

守り通さなければならなかったのです。

 

そこで地政学的に重要だったのが、ウェールズ。

古来、ウェールズはイングランド侵略の絶好の足がかりでした。

そのため、イングランド国王を頂点とする新しいキリスト教を

ウェールズ全域に広め、ひとつの同じ宗教のもとで

イングランドと結束させることが急務とされました。

 

でも、支配者階級より下のウェールズ人たちは、ウェールズ語しか話せません。

そこで、宗教的なことがらだけはウェールズ語の使用が許され、

ウェールズ国内のすべての教会に、ウェールズ語に訳された

イングランド国教会の祈祷書と聖書が備えつけられたのでした。

courtesy of Photolibrary Wales
courtesy of Photolibrary Wales

おかげでなんとか命拾いしたウェールズ語ですが、

次の試練は1819世紀の産業革命。

石炭の項でお話ししたように、南ウェールズは

無煙炭の採掘で大躍進の原動力となりました。

でも炭鉱主たちの多くがイングランド人だったため、

英語の優位性が高まります。

イングランドやアイルランドなどからの

労働者の大量流入もあり、

この時期にウェールズ語話者の割合は

人口の50%にまで低下してしまいました。

 

一方、南部ほど大きな変貌がなかった北部や西部では

英語話者の流入も少なく、ウェールズ語のコミュニティーが守られました。

そのため、現在もウェールズ語を母国語とする人の多くがこの地域の出身です。

ですから、先に申し上げた50%という割合も、これから出てくる割合も、

ウェールズ全土で満遍なくという数値ではなく、

実際には北や西ではもっと多く、南ではもっと少ないのです。

 

試練はさらに続きました。

産業革命によって貧富の差が広がったウェールズでは、

暴動も頻発していました。これに手を焼いた英国政府は、

ウェールズの教育に原因があるのではないかと調査を命じます。

現地の事情をまったく知らない委員たちが1847年に発表した報告書は、

諸悪の根源を英語を解さないウェールズ人の無知にあるとし、

ウェールズ語のことを“蛮族の言葉”とまで蔑みました。

子どもたちの将来のために英語習得の必要性を感じていた人々が、

この報告書に大いに扇動されたのは、いうまでもありません。

courtesy of Museum Wales
courtesy of Museum Wales

教育現場でのウェールズ語撲滅運動は加速し、

Welsh Not』という木の札の罰則も登場しました。

これは大々的な告げ口制度で、

教室でうっかりウェールズ語を

話してしまった子どもが首にかけられ、

その板を外してもらうためには、

ウェールズ語を話している別の子を見つけて

先生に報告する、というものでした。

下校時間になったときに『Welsh Not』の札を

かけている子は、ムチでぶたれたりしたのです。

 

このような状況が長く続き、

英語しか話せない子どもたちが増えていきました。

1870年ごろからのウェールズ国民復興運動によって

学問的にはウェールズ語への関心が高まったものの、

日常生活のなかで使われなかったために、

ウェールズ語話者の減少は続くばかりで、

1961年には人口の26%にまで落ち込みます。

この危機に際し、ようやくウェールズ語の存続運動が活発になりました。

1962年、著名な劇作家が『ウェールズ語の運命』と題した歴史的な演説をラジオで放送。

息絶えようとしているウェールズ語の復活を切々と訴えました。

この声はすぐに『ウェールズ語協会』の設立に結びつきます。

そして、たとえば英語だけの道路標識にウェールズ語を加えるよう要求して

座り込みを行うなど、行政に対して直接行動を起こしていきました。

一部には過激とも映った運動でしたが、功を奏したのか、

1967年、限定的ではあるものの、ウェールズ語は公用語として英国議会に認められます。

 

それでも、ウェールズ語話者の減少は止められませんでした。

1981年に過去最低の18.9%を記録。危機感はさらに募ります。

                         
                         

ところが、1977年に開局していた

ウェールズ語のラジオ局BBC Radio Cymruの放送や、

1982年にはじまったウェールズ語のTVS4Cの番組放映、

さらにウェルシュロックバンドの登場などで、

一般のウェールズ人たちの間に

先祖から受け継いできた言語への関心が高まります。

そして1988年には『ウェールズ語委員会』が設立され、

この委員会の力強い運動によって

ついに1993年、ウェールズ語は英語と完全に同等な

公用語として英国政府に認められたのでした。

Welsh Children Books / courtesy of Photolibrary Wales
Welsh Children Books / courtesy of Photolibrary Wales

いまではウェールズの子どもたちは、

英語で教える学校に通っていても、

義務教育の一環として16歳まで

ウェールズ語を学んでいます。

ウェールズ語で教育する学校も年々増えており、

話者は2015年に23%にまで回復しました。

 

しかもうれしいことに315歳の年齢層では41%と

4564歳までの18%に比べて格段に多いのです。

この回復傾向が続き、ウェールズ語はようやく

ユネスコの“絶滅危機言語”指定から

外れることができました。

 

現在、ウェールズ語TVS4CBBCウェールズと協力関係にあり、

2017年には英国政府から1000万ポンドの資金貸付を得ることになりました。

“ウェールズ語放送の未来を確かなものにするため”と、政府関係者が発言しています。

 復活を訴えてきた先人たちも、きっと胸をなでおろしていることでしょう。

 

 

 

 

 <蛇足>

ウェールズ語に興味があるなら、ちょっと勉強してみませんか?

日本語で書かれたテキストはふたつ。

ウェールズ語の権威、水谷宏先生の『毎日ウェールズ語を話そう』 と

水谷先生の薫陶を受けた小池剛史先生と永田喜文先生の

ウェールズ語の基本』です。

ちゃんと勉強すれば、アイステッズヴォドも怖いモンなし! なぁんて。