オワイン・グリンドゥール

~ウェールズ独立の志士~

“判官びいき”という言葉が生まれるくらい、日本人は源義経が大好き。

それはきっと義経が、一時は昇る朝日のような勢いで敵を駆逐したものの、

失意のうちに最期を迎えた悲劇のヒーローだからなのでしょうね。

Owain Glyndwr Statue / courtesy of Photolibrary Wales
Owain Glyndwr Statue / courtesy of Photolibrary Wales

ウェールズ史のなかにも義経と似たような人物がいます。

オワイン・グリンドゥール。

中部ウェールズにあった小国ポウィスの王族につらなり、

エドワード1世に滅ぼされた

サウェリン・アプ・グリフィズの末裔にもあたります。

1350年ごろに生まれ、ロンドンの法学院で学んだ

優秀な若者でした。

イングランド王リチャード2世から騎士に叙せられ、

王のスコットランドやアイルランド遠征に参戦するほど、

もともとはイングランドに忠実な臣下だったのです。

 

ところがリチャード2世から無理やり王位を奪った

ヘンリー4世の登場で、状況は一変します。

北東ウェールズの領地に帰郷したオワインを

待っていたのは、隣地の主、グレイ侯による

領土のかすめ取り。

すぐに宮廷に異議を申し立てますが聞き入れられず、

領地の一部がグレイ侯のものになってしまいました。

 


さらに幽閉されていたリチャード2世餓死の報も届き、

ヘンリー4世の不当かつ非道な仕打ちに耐えかねた

オワインは、すでに彼をリーダーとみなしていた

ウェールズ諸侯を呼び集め、1400年9月16日、

公然とイングランドに反旗を翻します。

すなわち、プリンス・オブ・ウェールズ

推戴されたのでした。 

ただちに仇敵グレイ侯の領地を攻略すると、

勢いに乗じて中部ウェールズの町を次々に陥落。

ヘンリー4世は鎮圧のために大規模な征伐隊を何度か差し向けますが、

いずれも撃破されてしまいます。

その間にも加勢する軍勢が増え続けて反乱の火の手は各地であがり、

1403年の終わりには、オワインはほぼウェールズ全土を支配下に置きました。

 

1404年、オワインは父祖の地の要衝の町、中西部のマハンセスに

ウェールズ初の二院制議会を設置。独立国としての様相を整え、

フランスやスコットランド、アイルランドから承認を得ました。

 

でも栄華はここまで。ほどなくイングランド軍が巻き返しにかかり、

1405年にはじまったフランス&ウェールズ連合軍のイングランド侵攻が失敗に終わると

オワインは後退を余儀なくされ、1408年には散発的なゲリラ戦のみとなってしまいました。

そして1412年の戦いののち、彼は忽然と姿を消します。

彼の名が記された公式文書も、1416年のものが最後となりました。

 

刀折れ矢尽きたオワインがどこへ行き、どのように暮らしたかは、わかりません。

追い詰められながらも捕まることがなかったので、没年も墓所も不明です。

でもこのことが、彼の英雄譚を伝説にまで昇華させたのでしょう。

“国家存亡の危機の際に、オワインは姿を現す”と言い伝えられています。

そう、かのアーサー王のように。

Glyndwr's Flag / courtesy of Photolibrary Wales
Glyndwr's Flag / courtesy of Photolibrary Wales

なぜこれほどまでにオワインは

ウェールズ人の心を捉えたのでしょうか?

理由としては、エドワード1世による征服後、

見下されながらもイングランドに臣従していた

ウェールズの支配者階級のなかで

はじめて対決姿勢を明らかにしたこと、

ウェールズの統一と独立を標榜していたこと、

などが挙げられます。


そしてなにより、彼はカリスマ性を備えた

力強い統率者だったに違いありません。

シェイクスピアも戯曲『ヘンリー4世』のなかで

ロマンあふれるケルト気質に満ちた、

勇敢で気高く、だれをも魅了する人物として

オワインを描いています。

 

彼の人気は、いまも衰えることがありません。

2000年はオワインが決起した年から600周年ということで

各地で祝典が催されました。

彼の紋章である4頭の獅子の旗をかかげて

ウェールズの独自性を祝おうという気運も高まっています。

2005年には916日の『グリンドゥールの日』をはさむ一週間、

首都にあるカーディフ城の城壁にオワインの旗がへんぽんと翻りました。

もちろん毎年8月のナショナル・アイステッズヴォドでも、

赤と黄色の旗が目に飛びこんできますよ。